わが生涯を語る~第一章~(誕生~幼少期編)
私は人よりも多くの苦難を乗り越えたわけでも、多くの成功を成し遂げたわけでもないが、それなりにいい人生を送らせて貰えたと思っている。
そんな私は今月27日に26歳を迎える。ここまでの人生を振り返るには丁度いい長さではないだろうか。そこで今回はこれまで自分が送ってきた26年の人生を幼少期から複数回に渡って振り返っていこうと思う。
誕生~長野時代
1995年2月27日、私はこの世に生を授かった。この日付はあの伝説的なゲーム、ポケモンシリーズの第一作目「ポケットモンスター赤・緑」の発売のちょうど一年前である。これ、ちょっとした豆知識ね。
生まれは長野県の長野市から電車で数十分の田舎で生まれた。といっても長野での記憶はほとんどない。3~4歳の頃に都内に引っ越したからである。
幼少の頃は両親・祖母から神童的な扱いを受けていたようで、1歳になるころにはひらがな・カタカナを読んでいたようだ。このことを母親が医者に話したが「ありえない、絶対にウソ」と言われたようだ。それくらいありえない早さでひらがなカタカナを習得していたらしい。
ことの真偽は今となっては闇の中だが、仮に本当だとしたらそこからのかしこさの伸びしろは少なかったといえる(だってTOEIC450点だし)。
長野時代ではっきりと覚えている唯一の思い出は幼稚園の時、階段を踏み外して2階から1階まで真っ逆さまに落ちたことだ。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ。このころからおっちょこちょいな性格は変わっていない。
なお、東京へ引っ越して別の幼稚園の時も歌の発表会の本番でイスから踏み外し、台無しにした経験がある。コイツいつもころんでるな…
東京時代~幼稚園卒園
4歳(幼稚園年中)の頃、東京へ引っ越すことになった。これも母から聞いた話だが、別の幼稚園に入園することになった僕はうまくなじめず、友達が出来なかったようだ。
しかし、唯一気が合った友達(N君)がいた。典型的な中産階級の僕とは違い、彼は曾祖父の代から代々医者の家系のお金持ちの子供だった。彼は幼稚園の頃から「自分は医者になる」と確固たる信念を持っていた。しかし、言動が一癖も二癖もあるような子で友達はいなかった。
友達がいない同士、何かシンパシーを感じるものがあったのだろうか。いつの日か一緒に遊ぶようになっていた。幼稚園内では勿論偶にお互いの家に行って当時大流行してた「ポケットモンスター金・銀」を一緒にプレイしていた。このゲームに対する思い出を語るとそれだけで記事が書けてしまうのでそれはまたの機会にしよう。「彼は医者を目指してるだけあって頭が良く、年長になる頃には九九が言えるほどにまで成長していた。
そのことを知った母親は僕にも勉強させようと公文式に通わせた。人生で最初の習いごとだった。正直モチベーションはあまりなかったが、他にやることもなかったので、計算問題を延々と解いていた。
↑公文式である程度の成績を修めると貰えるトロフィー、これより1個上のランクのトロフィーもあるが結局入手できずじまいだった。
それが功を奏したのか、幼稚園を卒業するころには足し算引き算はほぼ完璧にマスター、掛け算割り算も少しだが出来るようになった。
そんなこんなで、ポケットモンスター金銀で遊び、公文式で計算を学び、高いところから転んで僕の幼稚園生活は幕を閉じたのである。
第一章 完
次回、第二章~小学生編~へつづく…